2012/07/24

「ねっこのルーティ」は生き残れるか?

ちょっと宣伝みたいでいやなのだけれど、
私が書いた初めての絵本「ねっこのルーティ」について話したい。

物語自体は、空から落ちてきた名もない種(ルーティ)が、
芽をだし、地中の様々な生き物と出会い、成長?していく、
自分探しの物語なのだが、いまルーティはとても困難な状況に追い込まれている。
というのも、絵本の出版元であるパロル舎という会社が、
今年に入って倒産してしまったからだ。
(パロル舎は、30年以上もユニークで面白い絵本を出し続けてきた出版社で、私は大好きだっただけに残念でならない)

朝日小学生新聞や図書新聞、ダ.ヴィンチなどにも紹介され、
これからという時にルーティは行き場所を失ったのだ。
ルーティは困難な生き方を背負った子どもかもしれない。
ルーティが産声をあげたのは、昨年の5月。
しかし、本当は3月に生まれるはずだった。
ところが3.11東日本大震災が起こり、
パロル舎のような小さな出版社には紙が回ってこなくなり、遅れに遅れて5月になったのだ。

「ねっこのルーティ」はとても奇妙な恰好をしている。
細く伸びるひものような身体と大きな頭。
地震で壊れたアリの宮殿を直すために自分の腕を折り取ったり、
死んだ鳥の魂を救うために自分の手を燃やしたり・・・・
考えてみれば、ストーリー自体も、ルーティに困難さを強いている。
そんなルーティだが、一人ぼっちじゃない。
仲間はたくさんいる。

「ねっこのルーティ」の絵はフェースofワンダーの仲間たちの画法や色彩、
タッチから学んだもので描かれている。



彼らはずっと昔から私の絵の先生だから、ルーティの生みの親といっても過言ではない。
彼らはルーティの誕生をとても喜んでくれた。
みんなでルーティの絵を描いて、原画展をやろうと楽しみにしていた。
それがダメになった時、何人かの仲間が
「ルーティは死なないよ。また土の中を進んでいくよ」とか
「そうだ!死なないよ、ルーティだからね」
「ボクはルーティを描き続けますから」と励ましてくれた。

仲間は、それだけじゃなかった。今度は、アニーデザインのBow Booksというところから
「ルーティを電子書籍にしたらどうか?」という声が聞こえてきたのだ。
声の主に会いに行くと、話の中に出でくるドコドコという
ルーティのお師匠さん格の生き物そっくりの人が、
「大丈夫、大丈夫・・・」という感じで椅子に座って笑っていた。



「かわいくて、きれいな絵本は、そこらにいっぱいあるけれど、
こんなルーティはちょっといないよ。死んでもらっちゃ困る」そんなことを言ってくれた。

帰り道、私は思ったのだ。
フェースの仲間たちといい、Bow Booksのドコドコさんといい、
ルーティの地中の仲間たちそっくりだよなあ・・・世の中、捨てたものじゃない。

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2012/07/20

まっくらな道で教えられる

前回、紹介した高校生のmkさんは、おそるべき文章の達人でもある。
一部紹介しよう。



「体力作りの時に、マイケルジャクソンの歌を聴いたり、
音楽の時に、校歌を歌ったので、私は怖かったです。
此の理由は、旧形国電やJR相模線の205系列車と同じ音がしたためです。
音楽の時に「明日は晴れる」も歌ったので、私は楽しかったです。
此の理由は、私が好きな歌であることや、お母さんと一緒の歌である事と、
私は12年前の○○○さんや東急田園都市線の8500系電車の気分がしたためです。」

どうです?
マイケルの歌と校歌には、旧国電の205系列車?の音がするなんて、
どんな耳をしているのでしょう?
「明日は晴れる」には、東急8500系電車の気分がするなんて、詩人じゃありませんか!
それにマイケルの歌には205系と同じ音がするから、私は怖い!という超論理の断定!
確信!!ちょっとすごくありませんか?
日常の論理にどっぷり浸されている私の頭はくらくらしてしまうのです。

どうしたら、こんなに突拍子もないものを
ためらいもなく結び付けることができるのだろう?
尊敬してしまうのです。
文章だけでなく、仲間たちの絵もそのような非日常の表現に満たされ、
それが私の心を打ちます。
技法のうまい下手を軽く超える徹底した表現の個別性、
ためらいのないストレートな力、何でもありの自由感・・・
その対極を生きている私にはないものばかり。
やっぱり彼らは私の先生だな・・・。

7月11日、そんなことを考えながら、
夜10時ころに藤沢から町田まで自転車を走らせていました。
境川という遊歩道を走っていたのですが、その道は街灯が一切なく、とんでもなく暗い。
九州地方に停滞する梅雨前線の影響で風がごうごう吹き、
水かさを増した川の音や広がる田んぼから
カエルの声が歓喜の歌の合唱のように響き渡っている。
向かい風のために、ペダルを踏めど、前に進まず息切れ寸前の私には、
やけに恨めしく聞こえてくるのですが、
いつのまにか異空間に迷い込んだような気になって、
何やら大声をだし走っていると、突然、目の前に猫が現れたのです。
あわてて、両手で急ブレーキ。

すると、後輪が浮き上がり、私は自転車ごと前に向かって一回転してしまったのです。
こんなことってあるの?という感じの見事な前転?でした。
気が付くと左ひじと膝をすりむき、少々痛かったのですが、
私は、これだよなと一人合点。
いまなら、梅雨前線と自転車とカエルの声の気分で、
mkさんばりの文章が書けるかもと思ったのでした。




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2012/07/17

頭上で笑う人

「フェースofワンダー」って名前の意味を聞かれることが多い。
そんなに耳触りな感じではないから、
すっとそのまま流してしまうことも多いのだけれど、
やってることを聞いたり、見たりすると、
「あれっ?フェースって、何なのだろう?」と考えこんでしまう人も結構いる。

確かに言葉から、やってることをイメージするのは難しい。
スティーヴィーワンダー?
サングラスとあの大きな口から出てくる声、
センスofワンダー?
レイチェルカーソンのあの澄んだまなざし…そんなイメージも浮かんでくる。
それも正解なのだけれど、でも、直訳すると「へんな面々…」?
それが一番実態に合ってるかもしれない。

フェースofワンダーは東京や神奈川を中心にいくつかの場所で
アートスペースという場を作って活動しているのだけれど、
いろいろな仲間たちが集まってくる。
小学校一年生のちびっこから、自称自由人の労働者や還暦を迎えるお姐さんまで多種多彩。
そこにはスティービーさんもレイチェルさんもいる。
そんな中で、きょうはちょっと風変わりな仲間を紹介する。

月二回、藤沢市にある古い米屋を改造した蔵まえギャラリーっていうところで、
二階をお借りして活動しているのだが、
その変わった人はこの春、二階の鴨居の壁に現れて、いつの間にか数を増やしている。
トトロに出てくる「まっくろくろすけ」のように、そこに棲息しはじめたようだ。




特徴は、ばっちり見開いた目と口元に光る真っ白な歯。
鴨居に這わした電気コードに、両手でつかまり、
ずらりと並んで不思議な笑いを頭上からふりまいている。
はじめて、ここを訪れた人はぎょっとする。
慣れてくると、一人ひとりをじっくり見上げ、「誰なんでしょうね?」と聞く。
「AKBの前田敦子さんです」と机の上で、
変な人を生み出している高校生のmkさんが高いトーンの声で答える。
「へえ~、そうなんですか?言われてみれば、一人ひとり違いますね。」

そうなのだ。
一見同じように見える彼らは、じっくり見れば実に個性的なのだ。
それに気づくかどうかは、私たちの感性の問題。
背中には、mkさんの字でしっかり彼らの名前が書かれている。
フェースでは、作品も仲間たちも同じように生きている。
で、実は最近私も彼らの仲間になり、へらへらした笑いを頭上からふりまいている…。




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2012/07/13

祈るすがた(仲間がおしえてくれたアートの力)

私がアートの力を実感したのは、いまから30数年前、
教員になりたての私が受け持った発語のない生徒Mとの出会いがきっかけだ。

気持ちが荒れて、自分の腕を傷つけたり、
友だちの顔をひっかいたりという毎日が続いていた。
ある朝、Mが教室を飛び出し、美術準備室に入ると、
クレパスの箱の内側に何かを描き出した。
何本もの色鉛筆を使って、線を描きなぐっている。
やがて、気持ちが落ち着いたのか教室に戻ってきた。

次の日も同じ行動をくり返し、
そのうちクレパスの箱はなくなったので私は菓子箱を用意した。
そのうちMの描いた箱を見ていると、なぐり描きの重なり合った線が、
膝と頭を地面につけて祈っている人のように見えてきた。

すると、不意に、その祈るポーズとMの描きなぐる姿が重なって、
「ああ、ここにいたんだ」と急に、Mの心が見えたような気がした。





次の日から、私はMと一緒に教室を飛び出し、同じようになぐり描きを始めた。
何日かすると、Mが色鉛筆や箱を私に手渡してくれるようになった。
Mが初めて私を受け入れてくれた瞬間だった。

一つの表現を通して生まれた共有感が心を結びつけていく。
そんなアートの力の存在を教えてくれた。

なぜMが箱にこだわったのか?
理由は今も分からない。
しかし、箱の内側に一心に線を描きなぐる気持ちのよさは分かる。

色鉛筆を持った手を素早く動かすと、
内蓋の側面にぶつかり不思議な曲線が生まれる。
それを一定のスピードで何度も繰り返す。
すると心が澄んでくるのだ。
Mはそんな表現があることを私に教えてくれたのだ。

一人ひとりのかけがえのない表現。
それを仲間と一緒に見つけていくことが、私の生涯の仕事になった。

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2012/07/10

ゆりの木をぬけて

7月2日、街は雨雲に覆われ蒸し暑かったけれど、私はワクワクしていた。
初めて、「くすくすミュージアム」を作ってくれるCURIOUSっていう
デザイン編集会社の人たちと、会うからだ。

四ッ谷の赤坂口を出て、赤坂御苑の方に歩くとゆりの木の街路樹が続く。
ゆりの木はカナダ原産のとても大きな木で、
現地では花の形からチューリップツリーとも呼ばれていて、とても美味しい蜜が取れる。
材は楽器なんかにも使われる。
日本では葉っぱの形が半纏(はんてん)に似ているので、
半纏木(はんてんぼく)って呼ばれてたりする。



そのゆりの木の下を抜けていると、風が吹いてきて緑の葉が揺れた。
茂った小枝を見上げると、ダンスをする子どものように左右に小刻みに揺れている。
「よくきたね、あそぼうよ」って歓迎してくれているような心地よさに包まれた。

その気分は、CURIOUSの仲間(もういつの間にか仲間になったよ)に
会った時も変わらなかった。
持参したフェースの仲間たちの作品を「いいねえ、すごいよ」ととても楽しんでくれた。
こんな風にして、これまで出会ったこともないフェースの仲間とCURIOUSの仲間がつながって行くんだと私は不思議なつながりが生まれ始めていることに感動さえ覚えていた。

その帰り、もう一度ゆりの木の下を通った。
私は木肌に触れながら、この木からどんな楽器が作られるのだろう?
どんな音が生まれるのだろうと想像した。
すると「きょうのくすくす」の、りほさんの絵が浮かんできた。
星型の顔をした人たちが、頭上の葉っぱの子どもたちに重なり合った。

ラッパの青い八分音符はゆりの木の音かも?
夜、私はよこはち編集長に、半纏を着た子どものイラストを描き、
本物の葉っぱで「ゆりの木坊や」を作ってみてとお願いした。
これが、その作品。
どう、絵本のキャラクターになりそうでしょう?



とりあえず、こんな風にして「くすくすミュージアム」はオープンした。

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